廃墟における新聞は時代の生き証人22019年06月27日 06時08分

新聞は…というより車の広告は…となってしまっていますが(苦笑

トヨタパブリカ(初代)の新聞広告

こちらも昨日掲載の写真と同じ場所、撮影地は東北。
トヨタパブリカ(初代)の新聞広告です。
車のナンバーが800となっているのは、初代パブリカ後期型のエンジン排気量800ccに由来するもので、この時代は排気量が車のヒエラルキーそのものだったことが伺われます。
今はダウンサイジングターボにハイブリッドと、車格と排気量があまりリンクしなくなってきていますね。

パブリカは、トヨタのコンパクトカーの先駆けとして、一般大衆への自動車の普及を目指して販売されたもので、車名もPublic Carを組み合わせた造語。
後のスターレット、現代のヴィッツのご先祖にあたります。

エンジンは水平対向!2気筒OHVです。水平対向と言えば、今は自動車ではスバルやポルシェのイメージですが、トヨタにも水平対向エンジンがあったのですね。
パブリカは、1961年からの初代初期モデルが700ccでしたが、1966年にビッグマイナーチェンジを受け、800ccにアップされています。つまり、この新聞は1966~1969年の新聞広告ということです。

広告価格は387,000円で、昨日掲載したファミリアロータリーより少し古い(1年~4年)のですが、20万円以上お安い価格です。
この時代は、日本の高度経済成長の真っ只中にあり、貨幣価値も目まぐるしく変化しています。
サラリーマンの賃金上昇率も、現代とは比較にならないくらい高かった時代です。
わずか2年で、これだけ貨幣価値が変わっているのです。
とは言え、この価格は、パブリカの孫?とも言えるヴィッツの1.0~1.3Lグレードの価格に相当します。
なので、一般庶民にも手が届きやすかったと思います。

Wikipediaを見ると、初期のパブリカは安価で軽自動車と同じ価格か安いくらいだけど、装備が簡素で、軽自動車に流れる人が多かったとありますので、この流れは現代に通じるものがありますね。
今や軽自動車が、普通車顔負けの重装備で、価格も普通車コンパクトカーと同額か、むしろ高いくらいですから。

トヨタパブリカ仙台、というのも時代を感じさせますね。今のカローラ店に相当するものです。
左下のトヨタレンタカーのマークは、今でも同じものが使われていますね。

自動車が憧れだったものから、頑張れば庶民でも手が届くものへと変わっていった時代の広告、今や都市部では車を持たないという時代ですが、この時代は高度経済成長で、自動車が光り輝いていた時代ですね。

廃墟における新聞は時代の生き証人2019年06月26日 06時39分

とカッコよくタイトルを書いてしまったけど(笑)、でもホントそうなんですよ。
その廃墟がいつ頃から廃墟となったのか、その当時の時代背景とか、あれこれ想像を巡らせられます。
そしてその中の広告もまた、その当時を知るための貴重なものとなります。

こちらはもう10年以上前の撮影。

1970年3月17日の毎日新聞広告から「マツダファミリアロータリー」

1970年3月17日の毎日新聞東北版。
キューピーコーワ80、俳優はえーっと…名前が思い出せません。
この時代からキューピーコーワってあるんですね。

そして下はマツダファミリアの2代目です。
ファミリアも乗用版がアクセラ→Mazda3となり、なくなって久しいですが(バンのみOEMとして名前は残っていますが)歴代ファミリア唯一のロータリーエンジンを搭載したファミリア。さぞかし燃費が悪かったことでしょう(笑

この時期のマツダはロータリーエンジンに苦心し、それこそファミリーカーのファミリアにも、マイクロバスのパークウェイにも、高級車のルーチェ、スポーツカーのコスモと、なんでもかんでもロータリーエンジンを載せていた時代です。
高回転型で低速トルクが薄かったロータリーエンジン、結局の所最後まで残ったのはスポーツカーのみとなり、それもRX-8を最後に消滅してしまいました。いや正しくは休眠でしょうか?

広告の2代目ファミリアのロータリー、59.8万円という価格は、今の水準だと187万円程度だそうです。今のMazda3が218万円からの価格なので、当時としてもそこそこ安かったのかな?
Mazdaは21世紀初頭までは安売りメーカーだったので、今の欧州思考、高級志向のマツダとはあまり比較できないかもしれませんが。

もう1つ載せようと思いましたが、今日はここまで。

ホンダTN-7をフィルムとデジタルで撮る2019年05月20日 06時32分

蔵出し写真から。
2008年4月、三峰神社の廃ロープウェーを撮影しに行った際に、山中で撮影した廃軽トラ。

ホンダTN-7 Nikon D300で撮影
データ:Nikon D300 + AF-S DX Zoom-Nikkor 18-70mm f/3.5-4.5G IF-ED  Aモード(f/4 1/40)-0.7 31mm(換算46mm) RAW現像

この当時、初めてのデジタル一眼レフD300を前年末から使い始めたけど、まだデジタルがメインではなかった時代でした。
なのでフィルムと併用し、デジタルはネガフィルム代わりのように使っていましたね。

ホンダTN-7 Nikon F90Xsで撮影
データ:Nikon F90Xs + AI AF Nikkor 35mm f/2D Aモード Kodak T-MAX 400 

フィルムとデジタルの違いにご注目ください。
フィルムのほうがコントラストが低いのですが、味わい深い表現になっています。
D300はRAWを最新のCapture NX-Dでモノクロ現像しましたが、もう少しシャープネスを落としてよかったかも。


写真は、ホンダのTNトラックの最終型、TN-7と思われます。
日本の軽自動車で最後の空冷エンジン搭載車でしたが、ホンダは、本田宗一郎の考え方により、最後まで空冷エンジンを引きずることになり、結果的に水冷エンジンで出遅れてしまいました。
挽回を図るために、水冷エンジンを積んだアクティにモデルチェンジし、現在に至っていますが、現在もアクティはライバルのスズキヤダイハツの周回遅れな感じになりつつあります。
アクティバンが、N-VANにバトンタッチされましたが、トラックの方はどうなるやら。

COOLPIX5400のRAWで撮った足尾銅山精錬所建物2019年05月16日 06時59分

2006年4月にCOOLPIX5400でRAW撮影した、足尾銅山精錬所建物。
懐かしい。

COOLPIX5400のRAWファイルをViewNX-iで現像

2007年頃から解体が始まり、現在は更地になっています。ストリートビューで確認できますね。

上の写真は、ViewNX-iで撮って出しのままJPG変換したもの。色が不自然に青っぽく、空に引っ張られて建物は暗すぎます。
来れた多分当時意図的にそうしたのだと思います。というのも、大昔のコンデジですから、ダイナミックレンジは極めて狭く、白飛びしやすかったからですね。
FW1.4でRAWでに対応したCOOLPIX5400でしたが、残念ながら当時のNikonのコンデジのRAWは、調整できるパラメーターはたかが知れていて、現在の機種のようにピクチャーコントロールも使えませんし、Dライティングなども使えません。
最新のCapture NX-Dでも、調整可能な項目は昔と同じ。

ですが、サードのRAW現像ソフトなら話は別です。
一時期限定無料配布されていた、SILKYPIX Developer Studio6をインストールしていたので、これを使って同じファイルを現像調整してみました。

COOLPIX5400のRAWファイルをSILKYPIX Developer Studio 6で現像

HDRの項目を調整して、明暗差を詰めてみました。ホワイトバランスも調整し、これが実際の現場の雰囲気に近い感じでしたね。
と同時に、絵が眠いことも克明にわかりますが、これは微妙にぶれているからです。
手ぶれ補正もなければISO感度も400までしか上げられないですからね。
シャッタースピード1/15秒。かなりきつかったですね。

それでも、ノイズは少なく、CCDらしい描写もまた、COOLPIX5400の良さでもありました。小難しいカメラでしたね。

水根貨物線遺構 第二境橋梁2019年05月15日 06時40分

水根貨物線遺構 第二境橋梁

奥多摩にある小河内ダム建造のために敷設された東京都水道局小河内線(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%B0%B4%E9%81%93%E5%B1%80%E5%B0%8F%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%B7%9A)、運行期間は5年半とのこと。

その後、最終的には民間会社である奥多摩工業に譲渡され「水根貨物線」となりましたが、実際にはダム建造の資材を運ぶための最初の5年半しか使用されなかったようです。

写真の撮影は2003年8月、現在の姿ではありません。
第二境橋梁と呼ばれているここは、線路自体がありませんでしたが、他の場所は今でも線路が残っているようです。

16年前の撮影ですが、現在の姿も確認したいですね。

この時代はまだフィルム撮影でしたが、リバーサルフィルムだけあり、当時スキャンしたものをそのままリサイズだけして掲載しましたが、画質は今でも通用しますね。

廃墟と廃車のバリューセット2019年04月08日 06時45分

車から見かけた廃墟

たまたま通りがかりに見つけた廃墟。

初代マーチかな? 廃車とセット。
敷地は割と広そうだけど、屋根には雨漏り防止と思われるブルーシート。

面白いのは車乗りやガラスにもシートとガムテが。

草ボーボーではないのと、木も枝が刈られているので、ちゃんと管理はされているのでしょう。

リフォームすれば、まだ使えそうですね。

霞ヶ浦分院横の機罐場跡 2011年1月2018年11月18日 07時16分

2011年1月に撮影した、東京医科歯科大学霞ヶ浦分院横にある機罐場跡。
当時、AF-S 70-200mm f/2.8G ED VRIIを買ったその足で訪れました。

あれから7年、周辺の状況は大きく変わったのは、前日のブログの通り。
今では厳重に管理されていますし、建物の崩壊も進んでいます。写真で残すというのは、その当時を知る上で重要ですね。

当時は忙しかったのか、撮影舌写真はごく一部をブログで紹介したのみで、HPにも未掲載でした。
せっかくなので、7年越しでRAW現像し直したものを掲載していくとします。
当時よりRAW現像ソフトも進化しているかな?

機罐場の電柱

この木製の古びた電柱は、今はもうありません。

機罐場

前日のブログでは崩壊が進んでいる…と書きましたが、2011年の時点で、既に壁や屋根は一部喪失していますね。

機罐場と煙突

印象的な煙突。窓ガラスが古い建物らしさを醸し出しています。
ちなみにYamaroが子供の頃通っていた小学校も、戦前の建造で、こんな感じの窓がついていました。

大半が割れた窓ガラス

ガラスも風化します。ほとんどのガラスが割れていました。
外壁のトタンも錆びついています。

機罐場の内部

入りました。内側から見ると、ほぼ外が素通しで丸見えです。

ブラウン管テレビ

ここがいつ頃まで現役で使用されたかは不明ですが、このテレビは70年代から80年代のものと思われます。
手前のテレビは、韓国のGoldstar、現在ではLGとなっていて、その前身です。
この時代、まさかLGが世界を席巻するとは思ってもいなかったわけで、日本の家電にとっては、時代の変化は残酷です。
このテレビが、現役時代のものなのか、後に不法投棄されたかはわかりません。

機罐場のガラクタたち

機罐場だけに、ボイラーがあって、その蒸気が何らかの作業に使われていたとは思いますが、ここに打ち捨てられたものがが何なのか、今となってはわかりません。

SANWA Pocket MINI

これは比較的新しい、SANWAのデジタルマルチメーターPocket MINI。これは80年代から90年代の製品ですね。
実はこれのソーラータイプは私も持っていて、それも90年代に親父からもらったものが未だ現役。
ちなみにこの商品、若干のデザイン変更で現在も販売されているロングセラー商品です。

機罐場のボイラー

機罐場のボイラー

機罐場ボイラーのバルブ

機罐場のボイラー。圧巻です。このサビ具合といい、取り囲むレンガといい、確かに戦前に作られたであろう施設であることがわかります。
これはぜひ遺産として残すべきものでしょう。

機罐場

機罐場

2011年でこの状況です。風雨に晒されているだけに、現在の内部状況が知りたいところですが、叶わないですね。
しかし、この年の3月に発生した東日本大震災にも、建物自体は耐えたことになりますので、古くてもしっかりした建物は、昔から耐震性能はそれなりにあったのでしょうね。

機罐場の煙突

ぽっかり空いた屋根から煙突が見えました。

機罐場の夕暮れ

この当時は、D300にTokina AT-X 124PRO DXで撮るのが定番でした。解像度もよく、なかなか色乗りの良い良いレンズでしたが、今は後輩に売却。また持っているかな?

もう1つの建物

もう1つの建物は更に崩壊が進んでいました。こちらは時間切れで散策せず。

機罐場の夕暮れ

日が沈んでいきます。この古い電柱は、今はもうないようです。

霞ヶ浦分院前は道路工事中でした

霞ヶ浦分院の目の前を通るこの道路は、この当時建造中でした。
完成後の道路は、前日のブログの一番上の写真のとおりです。


2011年の写真如何だったでしょうか?
10年以上前のD300、なかなか良い仕事をしてくれました。RAWなら最新ソフトで当時以上の画質で出力できます。

東京医科歯科大学霞ヶ浦分院付近の現状2018年11月17日 08時09分

戦時中までは、鹿島海軍航空隊司令部庁舎として使用され、戦後は東京医科歯科大学霞ヶ浦分院となり、1997年まで使用された、有名な廃墟。
2011年を最後に撮影に行っていませんでしたが、現状を確認しようと、7年ぶりに現地を訪れました。

東京医科歯科大学霞ヶ浦分院を遠景に

廃墟を巡る現状は、Googleマップの航空写真やストリートビューなどで、昔とは違い簡単に現状(と言っても2,3年のラグはある場合もあるけど)は簡単に確認できる時代。
そして廃墟散策も下火となり、HPからSNSへ主力が移っています。
有名HPも、軒並み更新が止まったり、閉鎖されたり。そんな自分も、家庭に仕事に変化が大きく、ここ最近は撮影に行けていませんでしたが、無理しない範囲でボチボチ撮っていこうかなと思っています。

さて東京医科歯科大学霞ヶ浦分院ですが、初めて撮影した2005年辺りから、周辺状況は刻々と変化しています。
当初は、建物の前までの道路は、立入禁止とは言え厳重ではなく、地元の人も散歩していたくらいでした。

それが、2011年には道路の工事が始まっていて、現在では周辺には国立環境研究所 水環境保全再生研究ステーションができました。

霞ヶ浦の水質調査や研究をしているようで、現在霞ヶ浦分院を正面から見られるのは、ここの職員だけになっています。
元々、有名廃墟として、あるいは心霊スポットとして、侵入者が耐えなかったのか、2011年には厳重に封鎖されており、現在ではALSOKの看板がデカデカと掲げられております。
私自身、霞ヶ浦分院は外から見たことしかありません。

上の写真も遠くに霞ヶ浦分院が見えますが、2011年当時にはまだ存在しなかったソーラー発電所が、道路の対岸にできていました。
分院自体更に柵で覆われていますが、その周辺は定期的に草刈りがされているようです。

東京医科歯科大学霞ヶ浦分院

望遠レンズで。2階の窓にも板が貼られています。
テレビアンテナが折れて倒れていますね。
蔦が建物を覆いつつあります。これが一部紅葉していて美しい。


機罐場跡

霞ヶ浦分院の隣りにある機罐場の建物は、かなり崩壊が進んでいました。

機罐場の煙突

機罐場のボイラーの煙突が印象的。手前も奥も、外壁も屋根も外れている箇所が多くなっています。向こう10年で崩壊知てしまうかもしれませんね。

国立環境研究所 水環境保全再生研究ステーション

この道路の向こうはに、霞ヶ浦分院や機罐場があります。
右に見えるのが国立環境研究所 水環境保全再生研究ステーションです。職員の方が出入りしているのも確認できました。


霞ヶ浦

反対側には霞ヶ浦。
近くには、かつて元鹿島海軍航空隊の施設として、水上機のカタパルトが設置され、水上から地上へ引き上げるための滑りも設置されていて、現在もその跡が残っています。
この周辺も、以前と比べて整備がされている感があります。


せっかくなので、2011年当時の写真も、再度掲載しようと思います。

大井町の古ビル22018年11月15日 06時38分

続き。

ダンス教室の入り口の隣には、これまた現役ではないと思われる「PUB France」が。現役時代はフランス人の社交場だったのか? ッテイメージはあまり湧きそうにないです。

PUB France

電線は切られていてごちゃごちゃ。

切られた電線

それにしても、ダンス教室の看板がやたら多いです。
割と流行っているのか?

有効期限切れの電気メーター

デジタル表示のメーターがあったビルの反対側にも、同じように電気メーターがありましたが、こちらはどれも有効期限が平成27年となっていて、通電していない模様。


バリケードあり

ダンス教室の入り口は電気が点いているので現役なのは、前回お伝えしたとおり。
バリケードされていて、関係者以外立ち入り禁止、なんて看板が仰々しく立っているのも、この手の古いビルは、中に入れる状態ではヤンキーや浮浪者の巣窟になる可能性があるため、こうしているのでしょうね。
4階にあるということは、エレベーターもなさそうだし、階段で上がるのでしょうね。割としんどい。

ビル全景

暗くなってきて、改めてビル全景。
周りのビルが、古くても改装されてきれいになっている中、このビルだけが取り残されれています。
オーナーも老人なのだろうか? もう改修する気もなく、かと言って取り壊して建て直す感じもなさそうです。
テナントもダンス教室だけでは、固定資産税とか大変そうです。

ビル全景

帰りに駅側からビルを望んでみました。上には大きなダンス教室の看板が。ダンス教室の看板、たくさんあって、実質このダンス教室のためにビルが存在し続けている感じ。そしてマンションの広告看板が付けられているので、これも一定の収入にはなっているのでしょう。
鉄板で塞がれた窓、後付されたエアコンの長く伸びた配管など、古いビルらしくてゾクゾクきちゃいます。
ビルのお隣は駐車場ですが、ここもかつてはビルがあったのかも。もしかしたら、同じオーナーの土地なのかな?
といろいろ想像を膨らませつつ、大井町を後にしました。

大井町の古ビル12018年11月14日 06時40分

先日仕事でいった大井町ですが、なかなか香ばしいビルを発見して、久々に廃墟魂に火がつきまして(笑

ただ、タイトルを古ビルとして廃墟としなかったのは、一部現役と思われる箇所があったからです。

大井町の古ビル

大井町の駅前なので、地価は結構すると思うのですが、それでもこうした一等地にも、このように古びたビルはあるのです。
名前はN第一ビル、Googleさんで今はビルの名前もあっさりわかります。

古びた窓やひさしの枠

古びたコンクリートに窓、ひさしと思われる枠や避難はしごなど、なかなか良い雰囲気です。
窓が少し空いているのが、外れかかっているのか、ああいう開き方なのか。

大井町の古ビル

明らかにやっていないと思われるお店の名前はぼかしませんでした。
ただ、銀寿司で調べると、すぐ近くに同じ名前の現役のお店があるので、もしかしたら以前はこのビルで営業していたのかもしれませんね。

電気メーターは新しい

必ず確認する電気メーター。
右はもう古いものでしたが、中央と左はデジタル表示の新しいもので、有効期限も2~7年先でした。
つまり、この建物はまだ現役と言えます。

どさんことダンス教室

全国にフランチャイズ展開しているラーメンどさん子ですが、郊外にあって潰れている店が多いというイメージしかありませんが、都内にもあったのですね。まあここは潰れているようですが…。
お店のドアも、どう見てもスナックの入り口にしか見えません。
そして、そのお隣にはダンス教室の入り口。ここは現役のようです。入り口の向こうには電気が点いていました。
調べると、このダンス教室はHPはないようですが、口コミサイトに4年前の投稿は確認できました。

続く…。