さらば905号機 ― 2019年11月15日 06時49分
先日11月5日、RF-4Eの905号機が、百里基地航空祭を待たずに退役したとのこと。
自分にとっては、10月28日に撮影した写真が、最後の飛んでいる姿となりました。
●RF-4E改(47-6905)
スペマなので、恐らく百里基地航空祭では、地上展示となるはずです。洋上迷彩機も、現役で飛べる機体は後1機だけかな?
今年度いっぱいの、唯一の偵察機部隊、第501飛行隊最後の航空祭、楽しみですね。
続々と退役するファントム、後1年ちょっとが勝負です。
こちらは2011年8月に撮影した、まだ洋上迷彩ではなかった頃の905号機。
緑の迷彩も、日本のリコンファントムらしくてカッコいいですね。
この当時はまだNikon D300とAF-S 70-200mmに2倍テレコンで撮影していた時代。
ただ、滑走路の改修工事で、手前側で離着陸していた頃なので、DXフォーマットの400mmでなんとか撮れていました。
10年前のオジロファントム ― 2019年07月06日 06時57分
昨日Twitterにも上げた写真。
ちょうど10年前の2009年の百里基地航空祭での1コマ。
時間的にちょっと逆光になりつつある感じですね。
D300に、AI AF-S Zoom Nikkor ED 80-200mm F2.8D(IF)と、テレコンバーターのTC-20EIIで撮影していた時代です。
D300の画素数でも、流石に2倍テレコンだと、少し絵が甘くなりました。
加えて、D300は、割と暗部にノイズが乗りますね。
この写真はISO400ですが、D300の基本感度のISO200から少し上げただけですが、割とノイズが乗るのがわかります。オジロマークあたりなんかザラザラしてますね。
近年、百里基地航空祭は12月に開催されていますが、このときは9月で、まあ暑かった暑かった。
ちなみにまだ結婚していないときの、今の妻と一緒に見に行った時の撮影でした(はぁと
写真の401号機、2011年頃まで飛んでいて、2012年には部品を外された写真が出ているので、2011~12年に退役したようです。
第301飛行隊のファントムの退役が2021年3月なので、ファントムが日本にやってきた1971年から、実に半世紀もの間、日本の空を守り続けることになります。
どんどん退役するファントム、こうした何気ない写真も、貴重なものとなります。
ちょうど10年前の2009年の百里基地航空祭での1コマ。
時間的にちょっと逆光になりつつある感じですね。
D300に、AI AF-S Zoom Nikkor ED 80-200mm F2.8D(IF)と、テレコンバーターのTC-20EIIで撮影していた時代です。
D300の画素数でも、流石に2倍テレコンだと、少し絵が甘くなりました。
加えて、D300は、割と暗部にノイズが乗りますね。
この写真はISO400ですが、D300の基本感度のISO200から少し上げただけですが、割とノイズが乗るのがわかります。オジロマークあたりなんかザラザラしてますね。
近年、百里基地航空祭は12月に開催されていますが、このときは9月で、まあ暑かった暑かった。
ちなみにまだ結婚していないときの、今の妻と一緒に見に行った時の撮影でした(はぁと
写真の401号機、2011年頃まで飛んでいて、2012年には部品を外された写真が出ているので、2011~12年に退役したようです。
第301飛行隊のファントムの退役が2021年3月なので、ファントムが日本にやってきた1971年から、実に半世紀もの間、日本の空を守り続けることになります。
どんどん退役するファントム、こうした何気ない写真も、貴重なものとなります。
10年後の今はどうなっているのだろうか ― 2019年07月03日 06時32分
田老鉱山。もう10年前の撮影です。
https://yamaro.info/photos/ruins/taroukouzan/part1/tarouk1.html
上の写真は、HP掲載のものとは少しアングルを変えている、未掲載分です。
この当時の廃墟撮影スタイルは、Nikon D300にTokina AT-X 124PRO DX (12-24mm F4)というのが定番でした。
これがなかなか相性がよく、このレンズもまた色乗りがよく、愛用していました。
フルサイズ機のD800入手時に手放してしまいましたが。
改めてRAW現像してみましたが、当時よりソフトも進化していますし、ピクチャーコントロールも最新、ノイズリダクションも進化しています。
まだあまり良くなかったAWBも、RAWなら救済できます。
現代のこの場所、どうなっているのでしょうか?
もう行くことはないでしょうが、気になりますね。
真っ赤な部屋 ― 2019年06月28日 05時44分
廃墟における新聞は時代の生き証人2 ― 2019年06月27日 06時08分
新聞は…というより車の広告は…となってしまっていますが(苦笑
こちらも昨日掲載の写真と同じ場所、撮影地は東北。
トヨタパブリカ(初代)の新聞広告です。
車のナンバーが800となっているのは、初代パブリカ後期型のエンジン排気量800ccに由来するもので、この時代は排気量が車のヒエラルキーそのものだったことが伺われます。
今はダウンサイジングターボにハイブリッドと、車格と排気量があまりリンクしなくなってきていますね。
パブリカは、トヨタのコンパクトカーの先駆けとして、一般大衆への自動車の普及を目指して販売されたもので、車名もPublic Carを組み合わせた造語。
後のスターレット、現代のヴィッツのご先祖にあたります。
エンジンは水平対向!2気筒OHVです。水平対向と言えば、今は自動車ではスバルやポルシェのイメージですが、トヨタにも水平対向エンジンがあったのですね。
パブリカは、1961年からの初代初期モデルが700ccでしたが、1966年にビッグマイナーチェンジを受け、800ccにアップされています。つまり、この新聞は1966~1969年の新聞広告ということです。
広告価格は387,000円で、昨日掲載したファミリアロータリーより少し古い(1年~4年)のですが、20万円以上お安い価格です。
この時代は、日本の高度経済成長の真っ只中にあり、貨幣価値も目まぐるしく変化しています。
サラリーマンの賃金上昇率も、現代とは比較にならないくらい高かった時代です。
1966年と仮定し、このパブリカの価格を現代に置き換えると、151万円となります。これが1968年だと、139万円です。
わずか2年で、これだけ貨幣価値が変わっているのです。
とは言え、この価格は、パブリカの孫?とも言えるヴィッツの1.0~1.3Lグレードの価格に相当します。
なので、一般庶民にも手が届きやすかったと思います。
Wikipediaを見ると、初期のパブリカは安価で軽自動車と同じ価格か安いくらいだけど、装備が簡素で、軽自動車に流れる人が多かったとありますので、この流れは現代に通じるものがありますね。
今や軽自動車が、普通車顔負けの重装備で、価格も普通車コンパクトカーと同額か、むしろ高いくらいですから。
トヨタパブリカ仙台、というのも時代を感じさせますね。今のカローラ店に相当するものです。
左下のトヨタレンタカーのマークは、今でも同じものが使われていますね。
自動車が憧れだったものから、頑張れば庶民でも手が届くものへと変わっていった時代の広告、今や都市部では車を持たないという時代ですが、この時代は高度経済成長で、自動車が光り輝いていた時代ですね。
廃墟における新聞は時代の生き証人 ― 2019年06月26日 06時39分
とカッコよくタイトルを書いてしまったけど(笑)、でもホントそうなんですよ。
その廃墟がいつ頃から廃墟となったのか、その当時の時代背景とか、あれこれ想像を巡らせられます。
そしてその中の広告もまた、その当時を知るための貴重なものとなります。
こちらはもう10年以上前の撮影。
1970年3月17日の毎日新聞東北版。
キューピーコーワ80、俳優はえーっと…名前が思い出せません。
この時代からキューピーコーワってあるんですね。
そして下はマツダファミリアの2代目です。
ファミリアも乗用版がアクセラ→Mazda3となり、なくなって久しいですが(バンのみOEMとして名前は残っていますが)歴代ファミリア唯一のロータリーエンジンを搭載したファミリア。さぞかし燃費が悪かったことでしょう(笑
この時期のマツダはロータリーエンジンに苦心し、それこそファミリーカーのファミリアにも、マイクロバスのパークウェイにも、高級車のルーチェ、スポーツカーのコスモと、なんでもかんでもロータリーエンジンを載せていた時代です。
高回転型で低速トルクが薄かったロータリーエンジン、結局の所最後まで残ったのはスポーツカーのみとなり、それもRX-8を最後に消滅してしまいました。いや正しくは休眠でしょうか?
広告の2代目ファミリアのロータリー、59.8万円という価格は、今の水準だと187万円程度だそうです。今のMazda3が218万円からの価格なので、当時としてもそこそこ安かったのかな?
Mazdaは21世紀初頭までは安売りメーカーだったので、今の欧州思考、高級志向のマツダとはあまり比較できないかもしれませんが。
もう1つ載せようと思いましたが、今日はここまで。
ホンダTN-7をフィルムとデジタルで撮る ― 2019年05月20日 06時32分
蔵出し写真から。
2008年4月、三峰神社の廃ロープウェーを撮影しに行った際に、山中で撮影した廃軽トラ。
データ:Nikon D300 + AF-S DX Zoom-Nikkor 18-70mm f/3.5-4.5G IF-ED Aモード(f/4 1/40)-0.7 31mm(換算46mm) RAW現像
この当時、初めてのデジタル一眼レフD300を前年末から使い始めたけど、まだデジタルがメインではなかった時代でした。
なのでフィルムと併用し、デジタルはネガフィルム代わりのように使っていましたね。
データ:Nikon F90Xs + AI AF Nikkor 35mm f/2D Aモード Kodak T-MAX 400
フィルムとデジタルの違いにご注目ください。
フィルムのほうがコントラストが低いのですが、味わい深い表現になっています。
D300はRAWを最新のCapture NX-Dでモノクロ現像しましたが、もう少しシャープネスを落としてよかったかも。
写真は、ホンダのTNトラックの最終型、TN-7と思われます。
日本の軽自動車で最後の空冷エンジン搭載車でしたが、ホンダは、本田宗一郎の考え方により、最後まで空冷エンジンを引きずることになり、結果的に水冷エンジンで出遅れてしまいました。
挽回を図るために、水冷エンジンを積んだアクティにモデルチェンジし、現在に至っていますが、現在もアクティはライバルのスズキヤダイハツの周回遅れな感じになりつつあります。
アクティバンが、N-VANにバトンタッチされましたが、トラックの方はどうなるやら。
スーパーピューマ? シュペルピューマ? ― 2019年04月26日 06時36分
昨日と同じ、2012年に百里基地で撮影した、海上保安庁のAS 332「スーパーピューマ」
AS332ではなく、ASと332の間にスペースが入るのが正しいようで。
Nikon Z7ではなく、Z 7と書くのと同じですな。
でもって、フランス製の機体なので、通称「シュペルピューマ」と呼ばれていますが、英語表記はSuper Puma、海保は「スーパーピューマ」と呼んでいます。
百里基地で海上保安庁の機体が訓練するのは、珍しいですね。陸上自衛隊機なら、たまに来るのですが、海保の機体を見たのは、このときが最初で最後だった気がします。
でも、たまにあるんでしょうね。
D300のRAW画像を最新のCapture NX-Dで再現像してみましたが、やはりD850と比べると…いや比べるべくもない感じですが、ダイナミックレンジも狭いしノイジーですね(苦笑
とは言え、ソフトも新しくなれば、画質も"それなりに"改善します。
D850は文句ない性能ですが、D300のような軽快なカメラもまた使いたいですね。
実質的な後継機のD500は、もう3年前の機種ですが、今でも気になる機種ですね
AS332ではなく、ASと332の間にスペースが入るのが正しいようで。
Nikon Z7ではなく、Z 7と書くのと同じですな。
でもって、フランス製の機体なので、通称「シュペルピューマ」と呼ばれていますが、英語表記はSuper Puma、海保は「スーパーピューマ」と呼んでいます。
百里基地で海上保安庁の機体が訓練するのは、珍しいですね。陸上自衛隊機なら、たまに来るのですが、海保の機体を見たのは、このときが最初で最後だった気がします。
でも、たまにあるんでしょうね。
D300のRAW画像を最新のCapture NX-Dで再現像してみましたが、やはりD850と比べると…いや比べるべくもない感じですが、ダイナミックレンジも狭いしノイジーですね(苦笑
とは言え、ソフトも新しくなれば、画質も"それなりに"改善します。
D850は文句ない性能ですが、D300のような軽快なカメラもまた使いたいですね。
実質的な後継機のD500は、もう3年前の機種ですが、今でも気になる機種ですね
在りし日のF-4EJ改330号機 ― 2019年04月25日 06時44分
霞ヶ浦分院横の機罐場跡 2011年1月 ― 2018年11月18日 07時16分
2011年1月に撮影した、東京医科歯科大学霞ヶ浦分院横にある機罐場跡。
当時、AF-S 70-200mm f/2.8G ED VRIIを買ったその足で訪れました。
あれから7年、周辺の状況は大きく変わったのは、前日のブログの通り。
今では厳重に管理されていますし、建物の崩壊も進んでいます。写真で残すというのは、その当時を知る上で重要ですね。
当時は忙しかったのか、撮影舌写真はごく一部をブログで紹介したのみで、HPにも未掲載でした。
せっかくなので、7年越しでRAW現像し直したものを掲載していくとします。
当時よりRAW現像ソフトも進化しているかな?
この木製の古びた電柱は、今はもうありません。
前日のブログでは崩壊が進んでいる…と書きましたが、2011年の時点で、既に壁や屋根は一部喪失していますね。
印象的な煙突。窓ガラスが古い建物らしさを醸し出しています。
ちなみにYamaroが子供の頃通っていた小学校も、戦前の建造で、こんな感じの窓がついていました。
ガラスも風化します。ほとんどのガラスが割れていました。
外壁のトタンも錆びついています。
入りました。内側から見ると、ほぼ外が素通しで丸見えです。
ここがいつ頃まで現役で使用されたかは不明ですが、このテレビは70年代から80年代のものと思われます。
手前のテレビは、韓国のGoldstar、現在ではLGとなっていて、その前身です。
この時代、まさかLGが世界を席巻するとは思ってもいなかったわけで、日本の家電にとっては、時代の変化は残酷です。
このテレビが、現役時代のものなのか、後に不法投棄されたかはわかりません。
機罐場だけに、ボイラーがあって、その蒸気が何らかの作業に使われていたとは思いますが、ここに打ち捨てられたものがが何なのか、今となってはわかりません。
これは比較的新しい、SANWAのデジタルマルチメーターPocket MINI。これは80年代から90年代の製品ですね。
実はこれのソーラータイプは私も持っていて、それも90年代に親父からもらったものが未だ現役。
ちなみにこの商品、若干のデザイン変更で現在も販売されているロングセラー商品です。
機罐場のボイラー。圧巻です。このサビ具合といい、取り囲むレンガといい、確かに戦前に作られたであろう施設であることがわかります。
これはぜひ遺産として残すべきものでしょう。
2011年でこの状況です。風雨に晒されているだけに、現在の内部状況が知りたいところですが、叶わないですね。
しかし、この年の3月に発生した東日本大震災にも、建物自体は耐えたことになりますので、古くてもしっかりした建物は、昔から耐震性能はそれなりにあったのでしょうね。
ぽっかり空いた屋根から煙突が見えました。
この当時は、D300にTokina AT-X 124PRO DXで撮るのが定番でした。解像度もよく、なかなか色乗りの良い良いレンズでしたが、今は後輩に売却。また持っているかな?
もう1つの建物は更に崩壊が進んでいました。こちらは時間切れで散策せず。
日が沈んでいきます。この古い電柱は、今はもうないようです。
霞ヶ浦分院の目の前を通るこの道路は、この当時建造中でした。
完成後の道路は、前日のブログの一番上の写真のとおりです。
2011年の写真如何だったでしょうか?
10年以上前のD300、なかなか良い仕事をしてくれました。RAWなら最新ソフトで当時以上の画質で出力できます。
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