ニコンミュージアム企画展「ニコン双眼鏡100年の歴史」を見てきた2 ― 2018年07月08日 12時45分
前回の続きです。
初っ端から興奮してしまいましたが、このあと大物登場です。
こちらは1940年代の双眼鏡です。
第二次世界大戦、太平洋戦争中にも、きちんと製品開発され、販売されていたようです。
それでも戦争末期はいろいろ部材が手に入らなかったのではないでしょうか? とはいえ、双眼鏡は軍事分野でも偵察や測距などで使用するため、製品もきちんと開発されていたことが伺えます。
戦後すぐの製品もあります。本格的にカメラ参入する以前に、まずは双眼鏡を販売することに力を入れていたのでしょう。
では今回の目玉展示のご紹介。
これは大変貴重な展示です。滅多にお目にかかれない代物です。
製造は1937年で、30年代に戻ってしまいますが、軍事用途の双眼鏡として、歴史的価値の非常に高いものです。
なんと、旧海軍の潜水艦の甲板に搭載されていた双眼望遠鏡です。
水深100mの水圧にも耐えるため、分厚い鋳物の筐体に収められています。対物レンズ側には耐圧の分厚いガラスが入っているそうです。
修理のために船体から外されて、ニコンに長期保管されていた、すごいです、こんなものがちゃんと保管されているとは。
どの潜水艦から取り外したものかはわかりません。もしご存知の方がいらっしゃいましたら、コメントに書き込んできただければと思います。
対物レンズと蓋です。確かに、水深100mに耐えられそうな分厚いレンズです。
ちなみに、水深100mと一口に言っても、潜水艦搭載型なわけですから、当然水中で動きます。
ただ海水の100mの深さに沈むだけでなく、動くわけですから、沈めているだけよりも余計に、つまり10気圧をゆうに超える圧力がかかりますし、もちろんある程度の余裕を見越しているわけですから、この双眼望遠鏡は、相当な水圧に耐えられる構造なのでしょう。
筐体の上にはネジ止めされた蓋があり、乾燥剤と書かれています。
水に浸かるものですし、浮上状態と潜航状態では温度やかかる圧力も違うでしょうから、結露を防ぐために乾燥剤は不可欠なのでしょう。
なお、現代でも、こうした気密が保たれる場所に乾燥剤は入っていたりします。例えば車のヘッドライトユニットなんかにも入っている場合があります。
接眼部と、その蓋です。
接眼レンズ自体は耐圧構造ではないようで、潜航する際には上にある蓋を閉じるのでしょう。
接眼部の遮光ゴムは流石に経年劣化しています。
蓋に銘板が入っているのでクローズアップしてみましょう。
銘板には「九七式十二糎双眼望遠鏡」と書かれており、旧軍の97式とは零式艦上戦闘機の0式と同じように、皇紀表示(皇紀2597年)なので、西暦に変換すると1937年となり、この双眼鏡が1937年に正式化されたものとわかります。
その下の305は恐らく製造番号、更に下には19年、10月と読める表記があり、これが製造年月かもしれません。
昭和19年(1944年)10月製造だとすると、太平洋戦争も泥沼化した時期の製造に当たります。
旧海軍の潜水艦は、撃沈されたものが大半で、終戦時に生き残ったものも、連合軍によって処分、または戦後賠償として他国に引き渡されたりして、現存するものはなく、この双眼望遠鏡は大変貴重なものです。
よくぞひっそり保管しておいてくれました。感謝感激です。
もう次の公開はいつになるかわかりません。ぜひともこの貴重な双眼鏡を生で見てください。
ここからは1950年代以降の双眼鏡を。
50年代に入ると、戦後の混乱期から、朝鮮戦争の戦争特需により、日本の景気も少しづつ良くなります。
左下には、おなじみのMIKRONがありますが、その他の中型の双眼鏡も、ここにあるように、一部はMIKRONを名乗っていたようで、ちょっと混乱します。
逆に言うと、それほどNikonにおける双眼鏡のMIKRONという名前は価値があったのでしょうね。
上は1960年代から70年代の双眼鏡です。
この時代になると、高度経済成長に伴い、一般ユーザー向けの双眼鏡も多く出回るようになりました。
デザインも、従来の双眼鏡然した黒いものだけでなく、シルバーなどまだ色合いは地味ですが、従来のイメージにはない商品も出回り始めました。同時に、ダハミラーを使用し、光路を一直線とした幅の狭いコンパクトな双眼鏡も70年代に登場しています。
さて、今回はここまで。
次回はバブル期に突入する80年代以降の双眼鏡を紹介します。
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